利根川橋から右岸堤防上をカスリーン公園、加須未来館、羽生スカイスポーツ公園を経て東武日光線手前の葛西用水までの23.7kmのコースである。図-6.4にこのコースのルートを示す。2.5万分の1地形図は栗橋・古河・館林・妻沼である。
JR宇都宮線栗橋駅東口のそばに静御前の墓(写真-6.19)がある。何故ここにと思うが、久喜市教育委員会名の栗橋町指定文化財とあり根拠があるようである。奥州に逃れた源義経を追った静御前がこの栗橋あたりで義経の死を知り、生涯を終えたとされている。
ここから市街地を抜けて約20分で利根川橋に出る。堤防下に関所番士屋敷跡という標識がある。
右岸堤防上の利根川自転車道を進むとJR宇都宮線を潜る館林架道橋となり、渡良瀬川合流点の対岸から東武日光線橋梁(写真-6.20)となる。
東武線の上流の堤防は川表1:1.5、川裏1:1.7の勾配に強化対策がなされている。首都圏氾濫区域堤防強化対策というらしい。これの川裏側に本多静六博士の森(写真-6.21)がある。本多静六(1866-1952)は日本の「公園の父」と言われ、東京農林学校(現東京大学農学部)を卒業、ドイツ留学を経て、東京の日比谷公園・明治神宮、埼玉の羊山公園・大宮公園、福島の鶴ヶ城公園、福岡の大濠公園ほか多数の公園の設計・改良に貢献した人物である。東京駅丸の内口駅前広場や関東大震災復興の原案作りなどにも携わっている。少し上流にももう一箇所本多静六博士の森がある。
童謡のふる里おおとねカスリーン公園はスーパー堤防上に設けられた施設で、童謡のふる里室の建屋(写真-5.22)の前庭に決壊口跡の碑、利根川治水碑(写真-6.23)、カスリーン台風の碑 (写真-5.24)がある。カスリーン台風の碑には当時の被害写真が並べられている。一休みして見学するのがよい。
利根川治水碑というのは近代改修の竣工記念として昭和6年(1931)に内務省(現国交省)が建てた。明治33年(1900)から河口の銚子から204km間の改修が行われた。当時世界屈指の大土工で、同時期のパナマ運河1.8億㎥に対し利根川は2.14億㎥であったとのことである。
カスリーン台風は昭和22年(1947)9月8日に発生し、9月15日に房総半島南端を通過して去るまでの間に熊谷で338mm、秩父で610mmという記録的な豪雨をもたらした。上流の赤城山で土砂流出がおびただしく、利根川本川でも埼玉県現大利根町・茨城県現岩井市で決壊しとくに前者の氾濫流は東京都葛飾区・江戸川区まで達し、浸水30万棟、死者1,132名という大惨事となっている。
円の中にパノラマビューポイントとして直径1m余りの表示板が張られている。関東平野を囲む山々や東京スカイツリーなどが見える方向を示しているとのことである。
出発点の利根川橋から上流の羽生市児童遊園地までの右岸堤防にはマヌシ注意の看板が多く(約10kmに35枚)、事故が多いのかもしれない。
埼玉大橋を過ぎる。
加須未来館はスーパー堤防上に平成13年(2001)に開館したプラネタリウム(写真-6.25)である。前庭にスーパー堤防の説明看板がある。
少し進むと堤防下に加須サイクリングセンターがある。
羽生市児童遊園地(写真-6.26)を過ぎて、羽生スカイスポーツ公園には各種の遊具や自衛隊練習機の展示、グライダー滑空場などがある。河川敷では毎年5月のゴールデンウイークに全長100m、総重量330kgのジャンボこいのぼりがあげられるらしい。
東北自動車道の利根川橋を過ぎると堤防下に田山花袋の歌碑(写真-6.27)がある。次の歌が示されている。
松原遠く日は暮れて 利根のながれのゆるやかに
ながめ淋しき村里の 此処に一年かりの庵
はかなき恋も世も捨て 願いもなくて唯一人
さびしく歌ふわがうたを あはれと聞かんすべもがな
海から148.5kmの標識を過ぎると堤防を左に下りる小道があり葛西親水公園となる。この公園には昭和43年(1968)利根大堰完成とともに役割を終えた葛西用水取水記念碑があり、次の説明がある。
葛西用水取水口跡:葛西用水は、見沼代用水、明治用水とともに日本三大用水と称され万治3年
(1660)関東郡代伊那忠克によって開削され、昭和43年(1968)埼玉用水完成に至るまで308年間通水
し、東部穀倉地帯をうるおしてきた。通水量毎秒16トン灌漑面積6500ヘクタールにおよび羽生市の治水に
もきわめて大きな関係があり、史跡として指定した。 昭和48年10月1日指定
ここから水路沿いに行き、市街地に右折して東武伊勢崎線羽生駅に向かう。葛西親水公園から約45分を要する。