多摩川編②二ケ領宿河原堰・稲田堤コース

図-4.3二ケ領宿河原堰・稲田堤コースルート図
図-4.3二ケ領宿河原堰・稲田堤コースルート図

 

 このコースは二子橋から右岸堤防を上流に向かい、二ケ領宿河原堰・上河原頭首工を通って是政橋で左岸に渡り、関戸橋までの約16kmである。あえて是政橋を渡るのはこれより上流の右岸は大丸用水堰で通行止めとなり、一般道路に大きく迂回しなければならないためである。このコースのルートを図-4.3に示す。2.5万分の1地形図は溝口・武蔵府中である。

  東急東横線・二子新地駅を出てしばらくは一般道路を進むがまもなく堤防上となる。途中に岡本かの子文学碑がある。岡本かの子というのは大正・昭和期の小説家・歌人・宗教研究家で芸術家岡本太郎の母親ということである。

  二ケ領宿河原堰(写真-4.13)は、土木学会デザイン賞2010最優秀賞を受賞しただけあって、存在感のある構造物である。古い堰は家康によって1611年に竹編み蛇篭で完成し流失・再建を繰り返しながら、戦後の昭和24(1949)コンクリート堰となった。昭和49(1974)台風16号によってこの堰の下流左岸で堤防260m決壊、民家19棟流出という狛江水害を受け、治水安全度向上の必要性から平成6(1994)年着手し平成11(1999)に改修された。なお二ケ領用水の二ケ領というのは、江戸時代の地名の川崎領と稲毛領にまたがって流れていたことに由来するらしい。二ケ領用水は宿河原堰と後述の上河原堰で取水され、余剰水は下流の平瀬川(4.3参照)で多摩川に戻る。

  多摩水道橋(-4.14参照)は、昭和27(1952)に廃止された登戸の渡しに替わる道路橋・水管橋併用で、昭和28(1953)に完成した。

上河原頭首工(写真-4.15)は二ケ領用水取水口として1611年に竹編み蛇篭を河幅に敷き詰める構造で完成した。その後昭和24(1949)にコンクリート製の浮き堰堤堰(透過堰堤)となり、平成24(2012)にゲートの改修がなされ魚道が設置された。

写真-4.13二ケ領宿河原堰
写真-4.13二ケ領宿河原堰
写真-4.14多摩水道橋
写真-4.14多摩水道橋
写真-4.15上河原頭首工
写真-4.15上河原頭首工

  京王相模原線を過ぎてすぐの対岸に「東京オーヴァル京王閣写真-4.16」の看板が見えるが、これは競輪場である。

  菅の渡しは下菅の渡しと上菅の渡しがある。多摩川最後の渡しで昭和45(1970)廃止された。

  稲田堤は、明治31(1898)日清戦争戦勝記念として地元稲田村の住民が多摩川の堤防に桜を植えたのが由来とされる。

  是政橋の少し手前に是政渡船場所があり、是政橋が木造で造られたのを機に昭和17(1942)廃止されたらしい。その後是政橋は昭和32(1948)鉄筋コンクリートとなり、平成23(2011)いまの四車線・長さ387.4mの斜張橋(写真-4.17)となった。

  是政橋を左岸に渡り、JRの南武線・武蔵野(貨物)線を過ぎると郷土の森公園となる。

  対岸に大丸用水堰(写真-4.18)が見える。

  2.5万分の1地形図には、郷土の森公園西隣に地殻活動観測施設が記されているので注意していたが見つけられなかった。NIED(防災科学研究所)の関東・東海地域観測網のひとつであるらしい。

  関戸橋の左岸たもとに中河原渡しの碑がある。鎌倉街道筋の渡しで昭和12(1937)関戸橋の開通とともに廃されている。明治35(1901)の渡し運賃が紹介されており「平水時(25)徒歩13厘、馬16厘、人力車16厘、水深5尺以上で川止め」などと書かれている

 

写真-4.16東京オーヴァル京王閣
写真-4.16東京オーヴァル京王閣
写真-4.17是政橋
写真-4.17是政橋
写真-4.18大丸用水堰
写真-4.18大丸用水堰

 このコースは関戸橋を終点とし、京王電鉄京王線・中河原駅で戻る。